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織物の屏風に拘る ― 歴代川島甚兵衞の情熱がやどる 織物のための屏風絵

織物の屏風に拘る ― 歴代川島甚兵衞の情熱がやどる 織物のための屏風絵

「屏風」、近頃どこかで目にされましたか?
例えば、3月3日ひな祭りの内裏雛の後ろ。はたまた大河ドラマや時代劇、更には美術館、教科書には俵屋宗達の国宝「風神雷神図屏風」など。そうやって記憶をたどれば、日常生活ではあまり目にする機会が少なくなってしまいました。

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屏風の移り変わり
織物屋は織物屋らしく織の屏風で

屏風は本来、風よけや間仕切りとしての機能性から生み出されましたが、やがて威儀を整えるためにも使用されるようになり、更に絵画の要素が加えられ室町から江戸時代に発展、障壁画などと美術の一つのジャンルを確立していきました。
時代は移り変わり、明治時代に西洋文化の浸透による生活スタイルの変化と共に、洋式の生活に合わせて登場した屏風があります。その屏風はこれまで日本の座敷で用いられてきた形とは異なり、椅子に座って眺めるときの目線の高さに画面の中央が合うよう、腰板と呼ばれる板を張って工夫を凝らした形の屏風です。また比較的コンパクトな四曲一隻(よんきょくいっせき)の屏風が数多く作られました。

古写真:四曲一隻 綴織屏風「牡丹」(川北霞峰 筆)

刺繍や天鵞絨友禅(ビロードゆうぜん)などで加飾された屏風は明治中期にはすでに作られ、欧米諸国でのジャポニズムの流行に乗る形で輸出もされていましたが、当時の川島織物の当主・二代川島甚兵衞は織物屋らしく、あくまでも織物で作ることに拘り、この分野に参入しました。
さて、そのための秘策とは?

秘策1 プロデューサー・二代川島甚兵衞

1898(明治31)年に帝室技芸員(現在の人間国宝の前身)に任命された二代甚兵衞は、現在で言うプロデューサーでした。
自分が思い描いたものを形にするために幾人もの画家に依頼し、時に衝突しながら図案を完成させ、製作工程を支えるために近代的な工場設備を作り一貫生産体制を整え、従来の技法を改良して得た技術力を注ぎ込んで、多くの作品を作り出しました。

秘策2  情熱を支えた職人技

二代甚兵衞が興した事業は数多くありますが、特に顕著な業績として、綴織の改良があります。フランスのゴブラン織を超える表現を求め、従来の小幅の綴織機から始まり最大18mの織機を増設、この織幅で織り出すための織り方の工夫など、様々な改良や開発を行い絵画にも勝る新たな表現を可能にしました。
しかしこれに飽き足らず、究極の表現方法として両面綴織という新たな技法を開発しました。綴織の特徴の一つに、裏と表の見た目が同じという点があります。とは言っても普通は、裏面には緯糸(よこいと)の端などが出ていて、裏と表の見分けがつきます。一方、二代甚兵衞が苦心の末生み出した両面綴織は、文字通り表から見ても裏から見ても柄が反転する以外、変わりありません。一見するとどうやって織ったのかわからない、神業のような織物です。
部屋の中で間仕切りとして使用する屏風は、前後ろ両側から見ることになりますので、両面綴織は屏風に最適な織技法でした。

両面綴織屏風 試織用原画「旭櫻」
左:両面綴織屏風 試織「旭櫻」(表)  右:両面綴織屏風 試織「旭櫻」(裏)

そして当時製作された四曲一隻屏風の場合、職人一人が4分の1(これを一扇といいます)を担当し、一隻分を四人で一斉に織っていきます。こういった工程を組むためには、四人全員が同等の技術を備えていることが必要となります。両面綴織は他には存在しない技法ですから、そのための技術習得の仕組みもあったと推測されます。製作に係るこれらの工程全てを取り仕切ったのが二代甚兵衞でした。
二代甚兵衞は知的財産権の確立にも関わりましたが、自身も積極的にこれらを利用し、1907(明治40)年にはこの技術で実用新案を登録しています。

秘策3  画家が描く織物の原画

では、織物の屏風を製作するときに、原画に求められるものは何でしょうか?
鑑賞のための絵画とは違い、織物の製作過程の一つである原画には、デザインとしての美しさも求められます。その他にも室内装飾にふさわしい題材か、綴織で表現できる細かさや構図か、屏風に仕立てたときに一扇ごとに四方を囲う枠がある状態で見て破綻はないかなど、求められる条件は多岐にわたります。
そんな条件を満たした屏風の原画の一つに、1910(明治43)年の日英博覧会に出展し名誉大賞を受賞した、両面綴織屏風「百菊」があります。

四曲一双 両面綴織屏風 原画「百菊」(川北霞峰 筆・1910年頃)

この原画を描いたのは川北霞峰です。
川北霞峰は明治中期の日本画(四条派)の画家で、京都画壇で活躍し風景画を得意としました。川島織物(当時)とは、二代甚兵衞が手掛けた大作の綴織物の製作に、少なくとも2回、師の菊池芳文と共に関わったことがわかっています。最初の製作が機会となったのでしょう、以来何度か原画制作を依頼したらしく、霞峰が描いた数点の原画が残っていますが、中でもこの「百菊」は華麗さで抜きん出ています。
ただ華麗なだけではなく先程の条件に加えて、両面綴織の特徴である左右反転させても構図として成り立つこと、これらを満たしているのがこの原画なのです。 

上記「百菊」左右反転イメージ

今に残る屏風

「百菊」などの屏風は、納入先の記録が残っているものもありますが、残念ながら現存を確認できるものは少なく、完成品は川島織物文化館にも残っていません。そんな中、同じく川北霞峰の原画で三代甚兵衞が1925(大正4)年に製作した「綴錦牡丹図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・上のモノクロ古写真を参照)は、現在実際に見ることができる数少ない完成品の屏風です。
その「綴錦牡丹図屏風」が、2022年7月23日~9月19日まで京都市京セラ美術館で開催中の特別展「綺羅(きら)めく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業」で展示されます(※後期 8月23日~9月19日)。時を超えて歴代川島甚兵衞の情熱を今に伝える貴重な品です。機会がありましたら是非足を運んでいただきたいと思います。

綴織屏風 織下絵(左から「扇面散し」・「牡丹」・「菊」・「花車」)

川島織物文化館では、2023年6月2日(金)まで「歴代川島甚兵衞の情熱がやどる 織物のための屏風絵」展で、屏風の原画・織下絵などを展示しています。
先にご紹介した「綴錦牡丹図屏風」の華麗な原画や、実際に使用するためのものとは思えないほど美しい線が特徴の織下絵(織る際の設計図)、原画と寸分違わぬ超絶技巧の試織といった製作時の貴重な資料の数々を含め展示していますので、ぜひ川島織物文化館でご覧ください。

歴代川島甚兵衞の情熱がやどる 織物のための屏風絵

会期開催中 〜 2023年6月2日(金)
会場川島織物文化館
休館日土・日・祝祭日、夏期、年末年始
(川島織物セルコン休業日)
入館料無料
関連リンク展示情報
歴代川島甚兵衞の情熱がやどる 織物のための屏風絵 チラシ
その他※ご見学は完全事前予約制です。
※新型コロナウイルス感染防止のための対策を講じた上で、運営をしています。
 ご理解とご協力をお願いいたします。
 詳細は ホームページ をご確認ください。

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